院長の生い立ち
大学入学まで
生まれは大阪市内でしたが、2歳のときに堺市に転居しました。その後、登美丘東幼稚園、登美丘東小学校で自由気ままな幼少時代を過ごしました。親の影響もあり将来は医師になりたいという漠然とした希望を抱くようになったのもその頃です。
小学4年から無理をして塾通いを始めるも2年で放棄、私立中学への進学はあきらめそのまま地元の登美丘中学校へ。そこでまたのびのびと2年間過ごしましたが、中学3年の時にさすがにそろそろ勉強をしないとまずいのではと自覚。1年頑張って何とか公立の三国丘高校へ進むことが出来ました。
高校時代は良き友人にも恵まれ、バンド活動(ドラム担当)や自転車遠征旅行(日本海や四国など)、麻雀など勉強以外の活動に専念。バンドでは当時バナナホールという若手の登竜門ともいうべきホールにも出演させてもらいました。しかし高校3年の時、再度さすがにそろそろ勉強をしないとまずいのではと自覚。親の影響で進学するなら阪大医学部と決めていたため、受験するも見事に失敗。今は無き大阪予備校に通い1年間の浪人生活を送りましたが、最終的には念願の阪大医学部へ進学することが出来ました。
大学時代
大学では好きだったバンド活動を再開するため軽音楽部に入り、体つきが大きかったこともあり先輩からだまされてボート部にも所属しました。(その時はそこまでハードな体育会系とは思っていませんでした。)
軽音楽部ではサックス、トランペット、トロンボーンなど、約10人のメンバーで構成される大所帯バンドでドラムを担当し、様々なライブハウスやストリートで演奏する機会をいただきました。一方、ボート部はただ漕ぐことに集中する真の体育会系であり、練習や試合中はあまりのしんどさに半分意識が飛んでいることも多かったです。当時のOBの先生方からは、ボート部自体はただただしんどいだけのクラブだが、その後の医師人生において学生時代のあのつらさからすれば大したことはないと思えるようになるのがメリットと、わけのわからない説明をされたものです。今になればなんとなくわかる気もしますが、正直言って他の人にはおすすめはできません。
それ以外に、友人2人とともにダイビングサークルを立ち上げ活動を行っていました。ボート部のようなしんどさだけではなく、楽しいことに特化したサークルでしたので、自分の中ではちょうどバランスが取れていたと思います。ですが、軽音楽部の活動も合わせるとさすがに多忙となり、医学の勉強はほとんどできませんでした。
周りの学生もほとんど勉強をしている様子はなく(後で僕の近しい友人だけが勉強していなかったと気づくのですが、、)大学5回生の秋までは本当に充実した楽しい学生生活を送っていました。
ですが、そんな楽しい大学生活にもついに転機が訪れました。ある日のポリクリ(臨床実習)で、僕より不真面目だった友人の一人が、指導医からの質問に対してわけのわからない言語(ただの医学用語ですが)ですらすら返答をしだしたのです。
その後、その不真面目と思っていた友人から「そろそろ勉強しないとさすがに国家試験間に合わないだろ」と言われ、ついに楽しいだけの大学生活に終止符を打つ決心をしました。
国家試験まであと1年ちょっと、卒業試験まで1年弱、医学知識はほぼゼロという危機的状況をその時ついに認識し、同じような状況の仲間?とともに勉強を始めることにしました。
その後の1年間は聞くも涙、語るも涙の地獄生活でした。日曜だけは休息日としましたが、それ以外の日は毎日朝6時に起床、身支度を整え大学病院の空いている部屋を借りて仲間と勉強、朝9時になれば大学図書館が開くのでそちらに移動して夜7時頃まで勉強、その後また大学病院に戻って夜10時頃まで勉強です。まさに食事、トイレ以外はすべて勉強に費やしました。そのような生活をする羽目になったのは自業自得でしかないのですが、同じような仲間と一緒だったから乗り越えられたと勝手に美談にしています。
最終的には皆が協力しあったおかげで全員無事に医師国家試験に合格。学生時代最後の一ヶ月間、皆で言ったヨーロッパ旅行は最高の思い出となりました。
医師時代
当時の親世代が脳神経外科を特に難しくてかっこいいと思っていたため、僕もその感覚を受け継いでいたような気がします。救急と脳神経外科でさんざん迷った挙句、最終的には脳神経外科の道に進むことになり1年間大学で研修。その後3年ほど大学で臨床と研究をした後、八尾にある厚生会第一病院で勤務。無事脳神経外科専門医、抗加齢医学会専門医を取得し平穏な勤務医をしていたのですが、諸事情が重なり当時の院長と相談の上救急診療のテコ入れを行うことになりました。救急診療科の責任者となり、いろいろ方策を講じて何とか救急搬送件数を増やすことが出来ました。その後、院長を拝命し約4年間、身を粉にして働きました。経営的には成功を収めたのですが、経営陣の方針と僕の理想とする医療の姿が乖離していることが最終的には決定打となり辞職することに。フリーランス医師としてひとまず数年のんびり生活しようと思っていたのですが、ご縁のあった八尾市立病院からありがたくお声がけいただき?救急診療科の責任者として着任させていただきました。市立病院では若くて元気いっぱいの研修医教育係もさせて頂いたおかげで、自分自身の成長にすごく役立ったと思います。着任当初から3年という期間限定のお約束を頂いていたこともあり、次のキャリアとして医療業界大手が企画運営する浜松南病院での勤務を選択しました。脳神経外科、救急診療科での勤務以外に、病院経営やM&Aなども学びたかったからです。
開業を決心するまで
年齢も46歳となり、医師人生も折り返し地点になってきたところで、最後は生まれ育った地元で何か恩返しができればと思うようになっていきました。
ですが、基本的には病院などある程度大きな組織で勤務してきたこともあり、小さなクリニックでの開業という選択肢はなかなかとりづらいという気持ちもありました。ただ、僕の理想の医療“いつでも気軽になんでも診てくれる医療機関”実現には、むしろクリニックの方が好都合なのではと考えるようになり、具体的なプランを浜松に居ながら練り始めることになりました。
最終的には、2次救急病院に遜色のない高度な医療機器を全てクリニックに導入し、なおかつほぼ赤字確定の救急の看板を掲げるという大胆な決断をしました。
いろいろ実験尽くめのクリニックではありますが、開業に際し心強い仲間には恵まれました。あとは、どれだけ地域の方々に信頼してもらえるかにかかっています。初芝の地に、“このクリニックがあってよかった”と思えるようただひたすら努力していこうと思います。どうか、皆さまの応援よろしくお願い申し上げます。
院長紹介
略歴
昭和63年 | 堺市立登美丘東小学校卒 |
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平成3年 | 堺市立登美丘中学校卒 |
平成6年 | 大阪府立三国丘高校卒 |
平成13年 | 大阪大学医学部医学科卒 大阪大学医学部脳神経外科入局 大学病院勤務 |
平成17年 | 厚生会第一病院勤務 |
平成26年 | 同病院長 |
平成30年 | 八尾市立病院救急診療科部長 |
令和3年 | 浜松南病院救急診療科部長 |
資格
- 日本脳神経外科学会専門医
- 日本救急医学会専門医
- 日本抗加齢医学会専門医
- 日本医師会認定産業医
- 日本人間ドック学会認定医
- ファイナンシャルプランナー2級
- 日商簿記3級
- アロマテラピー検定2級
- 潜水士